京都新聞 窓 欄 昭和61年 40歳
逝(ゆ)く夏に
ザザー、ザザー、と潮さいの音に目覚めると、カーテン越しの外はまだ
ほの白く黎明の宿であった。遠い日の父と枕を並べた海の夜明けである。
目前に広がる太平洋、背後には岩肌広がるへき地が亡き父の勤務地であった。
小学校の夏休みの数日を、私は当地で、父の手料理を味わい過ごした。
絶壁の傍らにポツンと一軒の万屋で手に入る食品は、卵と乾物が最上の材料
であった。半ば単身赴任の父は毎日同じ料理を食卓に並べた。小さな私はうんざり
してのどに通りかねた。
商家に生まれた父が学問に志をたて、国家検定のみで切り開いた人生。が、半生
を受験生活で送らざるをえなかった父の心残りは、大卒の 人間が、傍系としてしか
父を扱おうとしなかったことであったよう。
傍系ゆえに僻地に送られ、僻地ゆえ365日を卵と乾物で耐えた父の無念は、同じ
相克を味わった後継者を励まし後に立てようとのエネルギーとなった。「傍系とて
人の頂点に立てるはず。ワシの跡を継ぐ男はぜひ傍系から」。
刻苦勉励せよ、という言葉を私は小さいころから耳にしていた。女の私にも余計な
オシャレは許さない頑固オヤジを私は長い間、嫌っていた。傍系の父には、国立、公立、
私大とその価値観に大きな偏見があった。私はついに父には認められぬままの娘である。
口先ばかりの生意気な娘を父は何と思って旅立ったろう。私とていいたいことは山ほど
あるのに。
逝く夏、ふと潮さいの音を聞いたような気がして、父の命日は八月三十一日である。