人間生きてれば色々なことがある。殺意を覚える程の
ことはなくても、人を心底憎悪することぐらい, どんな人間にも
覚えがあろう。犯罪などという言葉とは、自分の一生には、
さらさら無縁のものだと信じて、多くの人々は生きているに
ちがいない。しかし、犯罪とは決して特殊な人間のみが、
やらかす業ではないことを知っている者も多いのではないか。
人生とはまた意外性の濃いものでもあろうか。
『女子刑務所の長い午後』を読む。その中で、「人は皆犯罪とは
紙一重のところで生きているものものだ」というくだりがある。
嫁姑〈しゅうとめ〉のあらそい。男との転落の生涯。酒乱の夫との
妻としての人生への清算。どれもこれも、決して非日常的、かつ
特殊なケースとはいい切れない人生だ。
『生きてみたい、もう一度』では、筆者はバス放火事件の被害者で、
不倫の恋を清算すべく、とっさに自殺を思いつく。恋人の存在によって
死ぬのは思いとどまるものの、全身の80%がやけどという地獄の
日々を送る。けれど、彼女は犯人<丸山>を憎まず、獄中の彼に
手紙を出し、面会にさえ行く。なぜなら彼女自身、弱者としての
生い立ちがあり、薄幸だった犯人のそれと共通の部分があり、自殺
しようとした自分も放火犯人も同類だという。
この本の中で、私が最も感動したくだりがある。「人と人との
絆は、愛情で支えられていればこそ窮屈だ。自分自身のことも
自分で勝手には、できなくなるj。だが、この窮屈さこそが、狂気への
歯止めとなるのではあるまいか。私はその窮屈さから逃げていきたかった。
だが私はその窮屈さの中へ戻ることしかできなかった。
丸山博文が狂気へ走ることが‘できた’のは、彼には誰もいなかった
から、だったのではないか。丸山博文一人が異常でああり、特殊で
あったのではなかろう。我々の人間の弱さの中には、常に丸山博文
と同じ因子が存在してはいないだろうか」