京都新聞  私の評 欄   37歳

   犯罪見つめる 二冊の
   

  人間生きてれば色々なことがある。殺意を覚える程の

ことはなくても、人を心底憎悪することぐらい, どんな人間にも

覚えがあろう。犯罪などという言葉とは、自分の一生には、

さらさら無縁のものだと信じて、多くの人々は生きているに

ちがいない。しかし、犯罪とは決して特殊な人間のみが、

やらかす業ではないことを知っている者も多いのではないか。

人生とはまた意外性の濃いものでもあろうか。

『女子刑務所の長い午後』を読む。その中で、「人は皆犯罪とは

紙一重のところで生きているものものだ」というくだりがある。

嫁姑〈しゅうとめ〉のあらそい。男との転落の生涯。酒乱の夫との

妻としての人生への清算。どれもこれも、決して非日常的、かつ

特殊なケースとはいい切れない人生だ。

『生きてみたい、もう一度』では、筆者はバス放火事件の被害者で、

不倫の恋を清算すべく、とっさに自殺を思いつく。恋人の存在によって

死ぬのは思いとどまるものの、全身の80%がやけどという地獄の

日々を送る。けれど、彼女は犯人<丸山>を憎まず、獄中の彼に

手紙を出し、面会にさえ行く。なぜなら彼女自身、弱者としての

生い立ちがあり、薄幸だった犯人のそれと共通の部分があり、自殺

しようとした自分も放火犯人も同類だという。

 この本の中で、私が最も感動したくだりがある。「人と人との

絆は、愛情で支えられていればこそ窮屈だ。自分自身のことも

自分で勝手には、できなくなるj。だが、この窮屈さこそが、狂気への

歯止めとなるのではあるまいか。私はその窮屈さから逃げていきたかった。

だが私はその窮屈さの中へ戻ることしかできなかった。

 丸山博文が狂気へ走ることが‘できた’のは、彼には誰もいなかった

から、だったのではないか。丸山博文一人が異常でああり、特殊で

あったのではなかろう。我々の人間の弱さの中には、常に丸山博文

と同じ因子が存在してはいないだろうか」